2015年 05月 31日
「ヴァーチャリズム」のなかの公園 |
酒井隆史
天王寺公園
嘘のやうだ
十年の歳月が流れたとは
路端の風にあふられる新聞屑
ところきらわず吐きちらされた痰唾、吸殻、弁当殻
藤棚のある運動場
雨水の滲みこんだ公会堂の壁
砂を浴びた樹立や芝生
古ぼけた鉄骨の高塔―――「通天閣」
そのかなたに浮んでゐる夏雲のみだれ
そしてまたこゝを歩いてゐる人々の疲れた顔、鈍い眼
眸
みんな昔のまゝだ
リボンのとれた帽子も よごれた白衣も
「昨日」もあゝしてベンチの上や植込の蔭でアブレや
浮浪者はエビのやうに身体を折り曲げて眠つてゐた
十年前にもあゝして鉄柵のところでみすぼらしい鮮人
の女は子供のおしつこをさしてゐたつけ
あゝ、しかしなんとかれらの数の増えたことか
してみると何もかも昔のまゝと云ふわけではないのだ
俺は再びこの街に帰つてきた
そして昔なじみの公園を歩いてゐる
埃つぽい樹木やゴミゴミした雑踏の間を
俺は「俺の故郷」についてなんの淋しさも自嘲も今は
感じない
ただこの眼に映るものを残らずハツキリと視たい気持
だ
(小野十三郎『古き世界の上に』1934年より)
1、
大阪市天王寺区の南西部に位置し、大阪を代表する近代的公園である天王寺公園。小説や映画など、さまざまな媒体によって断片的にあらわれるその公園の歴史のなかでのすがたから、現在のすがたからはまったく想像することができない。建前上は名称と機能を同じくしながら、これほど「変質」をとげた空間もそれほどはない、ともいえるのではないか。それだけに、この「変質」は、現代の公園、あるいは都市そのものの変容を、その突端において指し示しているとも考えられまいか、これが本稿の仮定である。
たとえば、東映『釜ヶ崎極道』シリーズをはじめ、1960年代以降撮影された、いわゆる大阪「ディープサウス」地域にインスピレーションを求めた、やくざ映画、ポルノ映画をはじめとしたおびただしい数の映画、そして小説群が、この天王寺公園をなんらかのかたちで登場させている。そこでは豊かな木々のなかで、都会に出てきた困惑のなかで仮宿を求める人々、仕事にアブレぶらぶら暇をつぶす人々、数々の露店、見世物小屋、などなどが登場する。それらの表現が一様に前提としているのが、この公園のいわば開放的な「民衆性」であるともいってよいだろう。
まずはじめに、ざっと天王寺公園の歴史についてふれておく。
天王寺公園の設置の発端は、1903年(明治36年)の第五内国勧業博覧会の開催にさかのぼる。すでに大阪では太政官布告にしたがって、四天王寺を公園として設置していたが、その代替地として、現在の天王寺公園のあたり約10万坪の用地を取得していた。第五回内国勧業博覧会は、この用地を、一時的に利用するというかたちで開催される。その後、博覧会跡地がすべて公園へと転用されるものと思われていたが、その西側の一部は民間へと貸与され(通天閣を中心におく新世界という盛り場となる)たり、日露戦争における軍部への貸与期間を経たりして、1909年(明治42年)になって天王寺公園はやっと開園された。
天王寺公園がきわだって「民衆の公園」というべき性格を帯びていたとしたら、それは、とりあえず以下の二点においてである。
一つには、社会運動史において果たした役割にある。いわゆる公園が民衆による社会運動の歴史にひんぱんに登場するようになるのは、大正デモクラシーの時期であるが、日本において公園がその理念の実質性を獲得していったのはこの時期であるといってよい。近代的公園として1873(明治6)年という日本の近代化の過程の最初期に設立された上野公園は、国家的セレモニーや実際に、天王寺公園の設置のすでに6年前、1903(明治36)年に開設されていた日比谷公園は、大正デモクラシーの場所的な開始点ともされる(丸山1994 84頁)。戦前の日本の社会運動史において、天王寺公園の名は、あるいは上野公園や同じ大阪の中之島公園とならんで頻出する公園の名である。それには、中之島公会堂が、1913年(大正2年)そのまま移築され、天王寺動物園の南側に建つことになった、天王寺公会堂の存在が大きい(荒木 1989 97頁)が、公会堂における演説会、集会のみならず、デモの始点、終点としてもひんぱんに活用される(丸山 1994)。
たとえば目立った事例のみをとりあげてみるなら、1918年に米騒動が大阪にも飛び火したとき、その複数の起点のうちの一つは、天王寺公会堂である。ちょうど、米騒動が米価調節についての市民大会が開催されていたが、この閉会ののち、今宮町で発火して各地に広がりつつあった米騒動に大会参加者も合流。翌日も、天王寺公園は、そこからこの蜂起に参加する人々の結集場所となった。また、1922年(大正11年)には、いわゆるアナ・ボル論争の発火点となった、日本労働組合総連合の創立大会がこの天王寺公会堂で開かれている。付け加えておけば、いまはなき天王寺音楽堂では、1971年から1979年まで、関西フォーク、ロックの存在をアピールし活気づけた「春一番コンサート」が開催されていたことで天王寺公園は関西の音楽シーンの歴史のうちに記憶されている。
そして第二点として、その位置する場所、つまり釜ヶ崎という日本最大の寄せ場や新世界という安価で楽しめる盛り場が隣接していること、もともと近隣は低所得者層の街であるといった特徴が、この公園の利用者の層を規定したということである。この点については、のちにまた触れることになるので、指摘にとどめておく。
このような長い歴史をもつ天王寺公園だが、大きな転回点は1980年代にやってきた。1987年7月から10月にかけて、「いのち生き生き」といったテーマを掲げて開催された天王寺博覧会を契機として、その整備のためとして、開催前後の期間をあわせて2年にわたって公園は閉鎖される。1990年2月に新規に開園した際には有料化され(大人150円)、また「外周柵」によって厳格に仕切られた空間としてあらわれた。3メートルの透明な外壁には、数メートルごとに赤外線センサーが数多く装着されている。また、天王寺公園を構成している、動物園や美術館へと行く際に、めんどうな料金の支払いや迂回しなければならない新しいルートなど、さまざまな障害も発生した。かつての天王寺から盛り場新世界との街の連続性も、この措置によって分断されることになる。
もちろん、このような劇的変化には抵抗もあり、有料化の是非をめぐる訴訟が市民よりなされている(大阪地裁の判決は、市の裁量権の範囲内として原告敗訴)。この有料化の措置によって、天王寺公園は、市民公園としては日本でもまれな有料化された公園となる(都市と公園ネットワーク 1994 10頁(1))。「イメージアップによる活性化」。地下には私的企業の運営する駐車場が設けられ、地上には人工の滝、コンクリート敷きの小川と小道が設営された。しかし、かつては自然が豊かだったとされるこの公園は、整備において、樹木約4100本が伐採ないし移植され、その面影はない。剥きだしにされた空間に、人工的な飾り物ばかり目立つ場所である。
さらに、重要な点は、天王寺博覧会開催をまえにして、1986年には、「一時的」な措置として、公園の野宿者300人が締め出されている(平井 1997 256頁)。それ以降、イベントを期にして、野宿者を公園から強制的に排除するという事態は、頻度と、攻撃性、暴力性を増しながら強化されている。
このような結果、かつての「庶民の公園」としての天王寺公園は、きわだって排他的である「要塞」のごときていをなして君臨することになった。閉鎖されている時間も長いために、外壁で仕切られた内部の天王寺公園はたいがい閑散としていて、その活気のなさはきわだっている。なによりも驚くのは、その歴史のなかであらわれる天王寺公園の豊かな存在感を、かくもあっさりと刈り取ってしまう、この20年ほどの経緯のはらむ大きな切断である。
3、
それでは、この80年にわたる公園の伝統との決別が、どのようなものなのか、さかのぼって大正期における公園をみつめるまなざしの断片をみてみよう。
先述したように、大正期は、公園の理念が、時代状況の変容や、現実の利用状況との参照関係のなかから、実質化した時代である。公園は、資本蓄積の法則が人間集団の多様体を貫徹しつつ、みずからが生みだすと同時にみずからの前提である部分の捕獲装置―――「緩衝地帯」としてしばしば表現された―――として明確にあらわれるが、その搾取の機構や捕獲装置をめぐる激しい集団的紛争が起きる場ともなる。そのなかで、公園のうちには、かつての「コモン」の意義を、<社会的なもの>の上昇を変形させながら導きいれたのである。ここに、日本における近代的公園のパラダイムが形成される。
そのようなパラダイムを体現しているのは、1919年(大正8年)に、米騒動から第一次大戦後の戦後不況のなかで、大阪市に設置された大阪市社会部調査課の存在とそれによる文書である。
大正期には、1919年から1826年(大正15年)までに、調査課は『労働調査報告』として50の報告を残している。そのうちでも、公園を主題にすえて直接に調査をおこなった唯一のレポートである「公園内に於ける無宿者調査」『労働調査報告』第50号をみてみよう。
このレポートを一読して気づくことは、現在であればホームレスと呼ばれるだろう「無宿者」の存在を、公園の存在そのものにとって、なにか否定的な含意をもって問題のあるものとしてはほとんど捉えていないことである。
たとえば、次のようにレポートは記述する。
「何の貯へもなく明日の生命の保證さへも有たないこれら失業者があてどのない職と食を漁り求めてあちこち徘徊したのは各都市において見受けられた惨めな光景であつた。昨秋九月前後より年末にかけて本市中之島及天王寺公園に於いてもこれら全く生活に行きくれ多數の人々が夜ごと傘に川風をさけ蓆に暖をとりつゝほの暗い木立の間に或はベンチの上にはかない夢を結ばねばならなかつたことは極めて遺憾なことであつたと共に當時本市に於いて相當多くの失業者が路頭に迷ふてゐたことを有力に立證する」。
無宿者の境遇に対する同情が目に留まるが、ここで問われているのは、世間では混同されている失業問題と無宿者の存在を問いにふし、失業問題の解決をなすべく失業問題の実相にいたること、そのために、無宿者と一括される存在を失業者、無業者、有業者、乞食、浮浪者などといった範疇へと詳細に分類することなのである。
もちろん、「浮浪者乃至無宿者」の増大が社会的弊害となることは予測されている。そのための救済策としては、報告書は、大阪市労働共済会による各種の共済施設、失業救済土木事業があげられる。これは無宿者のなかの「真の失業者」ねらったものであり、既存の社会施設の活用により、「労働又は定住の習性を養はしむる」ことである。それに加えて、「やや微温的であり且つ消極的ではあるが」と前置きして、述べられるのが次のような提案である。
「警察當局の取締を嚴にすると共に公園その他における設備に改造を加へ或は巡視を置いて無宿者の來集を防ぐことが必要であり尚病者不具者及老幼者にして到底自活し得ないものに對しては現在の救護又は救助施設によるしか他に適當な方法はないやうである」。
この一節においては、警察の取り締まりや公園設備の改造が唱えられている。だがそこにおいても、このような対策は「消極的」あるいは結論部分では「姑息」と位置づけられ、問題の解決に根本から資するものではないことは自覚されていることは記しておかねばならないが、さらに、公園に無宿者がふさわしいかどうかということは問われていないことは確認しておく必要がある。ここでおもに課題とされているのは、無宿状態の解消なのである。
このような、無宿者の公園利用についてそのものへの相対的な無関心を規定しているのは、当時、確立されつつあった近代的公園の理念である。1919年(大正8年)の同調査課刊行の『餘暇生活の研究』(『労働調査報告』19号)における、公園の位置づけは、当時の、さまざまな行政関連、あるいは民間の報告書の基調を集約しているものといえるだろう。
「公園の面積を增すことは勿論必要であるがそれと同時にその利用性を增すことがより以上に重要である。即ち公園を利用する人が少いか或いは極めて短時間の利用ではその公園は有效に働いたとは云へない。大阪人の公園利用の實際を見るに從来の物見遊山の因襲に捉はれて居るやうである・・・・公園は民衆の公園であって公園などへ行かなくとも自家に庭園を所有し娯楽機関を備えつけてあるやうな少数者の趣味に投ずるが如き所謂高尚な数奇を凝らした箱庭式庭園よりも満足な住居を持たず公園を自己の庭園として唯一の慰安休養の地と考へて居るやうな人々の趣味要求を標準として彼等の最も利用し易かるべき無産者階級の公園、民衆的公園たらしむることが最も必要であらうと思ふのである」(大阪市社会部調査課、163頁)(強調引用者)。
公園は、万人に開かれているのと同時に、「無産者」、「民衆」といった、いわば多かれ少なかれ階級的含意をもったあて先をもっている。すなわち、公園は理念としては「万人に開かれていると同時に無産者ないし民衆というあて先をもつ」という一見矛盾した事態がここにみられるのである。しかし、この矛盾は、理念が現実に衝突しある実質をもった帰結であると捉えうるように思われる。つまり、それは、公園が「所有」という支配的理念に対するオルタナティヴを構成しているという点にある。「所有」なきものに開かれた空間利用の形態の一つが「占有」であるとしたら、それは相対的に「所有」の領域に与る度合いの少ない者(無産者、民衆)たちによる、ある持続をもった占拠といった「占有」に対しては比較的開かれている。それは決して公園の理念に背反する事態ではないからである。
4、
こうした、かつての公園をめぐるパラダイムは、おそらく1970年代の終わりまでは維持されていた。天王寺公園については、1979年に、地元のある団体(天王寺公園愛護会)から、野宿者対策として公園有料化の要請がなされたことがある。このとき、市公園局は、人権問題という視点をもって、有料化や柵などによる管理形態をとることなく、要請に対しては、「市職員の巡回回数の増加」「警察によるパトロール強化」(永橋、土肥、213頁)を回答している(これは先に引用した1926年時点での大阪市社会部調査課による、「消極的な」対策案を踏襲している)。
この長年にわたって維持されてきた公園を捉える枠組みの変容が、天王寺博覧会の開催から「要塞化」による再オープンにいたる1980年代の動向を規定している。公園をまなざすコードは、大ざっぱにまとめるならば、<社会的なもの>から<経済的なもの>―――公園は潜在的経済的価値をもったオープンスペースとみなされる―――へとシフトする。この背景には、もちろん、あたらしい政治的合理性としてのネオリベラリズムの台頭と支配があることは間違いない。都市の文脈でいうとそれは、デヴィッド・ハーヴェイのいう、都市管理経営主義から都市アントレプレナー主義への移行(Harvey 2001)に対応している。
天王寺公園の文脈でいえば、そもそも天王寺博覧会の開催は、「大阪21世紀計画」なる構想を遂行する「財団法人大阪21世紀協会」によって提案されている。この大阪21世紀協会の発足が1982年であり、それは日本の初期ネオリベラリズムの展開期を画する中曽根民活路線に沿ったものであった。情報化社会にふさわしい新しい国際都市としての大阪を構想するという名目で、それを遂行する手段として大阪21世紀が掲げたものの一つが「イベント・オリエンテッド・ポリシー」であった。これは、この1980年代以降の都市再編の流れに大きな影響を与えた作家の堺屋太一によって提唱されたものである。堺屋は、このポリシーを、情報化、国際化といったあらたな情勢に対応する都市戦略として、ニューディールに比肩するもの、「ソフトディール」と位置づけている。そこではニューディールにおける公共事業はイベントに置き換えられ、イベントを介して好循環が帰結するとされる。つまり、人が集まり、街は美化され、投資を呼びこみ、店舗や施設は増大し、街は充実する。その結果、より多くのイベントがおこなわれ、さらに人は集まる、そこでつくられる施設は人々のニーズにそったものになり繁盛する、とよいことづくめのヴィジョンが描かれた(原口、2004)。
この「イベント・オリエンテッド・ポリシー」の線に沿って、天王寺博覧会は開催される。そしてそれと同時に、行政や民間資本側による都心のオープンスペースとしての公園の潜在的経済価値への注目がはじまっている。公園にイベントという「集客装置」を設置し、それを契機に公園を商業空間に転換し、そこで再確立した管理権をそのまま継承して、より大きな開発へと向かう、という公園を活用したこの「ポリシー」の具体化の方向性は、ここにおいて明確にあらわれる。
この大阪で進行していた流れは、先述した都市管理経営主義から都市アントレプレナー主義への流れと合流しているように思われる。たとえば、都市アントレプレナー主義は、その最重要項目として「官民(官私)パートナーシップ」をおくと定義される。このパートナーシップは、地域(territory)の政治経済よりもはるかに密接に場所(place)の政治経済に焦点を合わせる、といったハーヴェイの指摘する、都市アントレプレナー主義の特性も呼び起こさせる。テリトリーとは、ここでは、特定の法的管轄区内部で、生活条件やあるいは労働条件を改善することに主要に向けられた各種の経済的プロジェクト(住宅、教育など)が示唆されているが、そこからすれば、大正期の行政が公園をみつめるまなざしは、まさにこのテリトリーによって規定されている。1926年の「公園内に於ける無宿人調査」報告が、天王寺公園と中之島公園という地理的にはかなり距離のある二つの空間を重点的に調査しているものの、そこに同じ(社会的)問題をみいだしているために地域的差異にはまったく不関与であるのに対して、この新しいアントレプレナー主義による天王寺公園へのまなざしは、天王寺地域が、大阪の新国際空港への窓口となり、といった経済的な戦略的位置づけによっていわば特異点(プレイス)として扱われている。
地域から場所の政治経済へという動きとあいまって、「住民」「居住者」の存在や圧力をミニマムに追いやりながら進行する。たとえば、それまでも観光や産業誘致の地域の売り込み(local boosterism)は存在した。だが、この都市アントレプレナー主義のもとでの特徴は、それが、外部からの資金源、新しい直接投資、あるいは新しい雇用源を求め、惹きつけるために、地方政府(地方自治体)を活用することのうちに統合される点にある。この視点からみるならば、大阪21世紀協会の登場は、たしかに、都市管理経営主義から都市アントレプレナー主義への転換を画するものといえる。都市政策について、もちろんそれまでも財界は強い影響力を及ぼしていたが、しかしそれは、形式上はさまざまな審議会に委員の代表を送り、あくまで都市を構成するさまざまなアクターの一員としての立場におかれていた。ところが、21世紀協会の新しかった点は、そこにおいて、財界と大阪府・市といった自治体が直接に都市計画をおこない、実現にうつす、という場になったことである。
このことは、「官私パートナーシップ」の活動が「アントレプレナー的」であるという点にさらにかかわっている。つまり、それがアントレプレナー的であるのは、遂行や構想において「投機的」であり、投機的活動につきものの困難や危険につきまとわれている、というに求められる。とすれば、それはかつての合理的に計画され調整された開発とは大きく異なっている。ハーヴェイの指摘によるならば、もちろん例外はあるものの、多くの場合、このことは公共部門がリスクを引き受け、民間部門が利益をうる、ということを示唆しており、この地方公共部門がリスクを吸収するとなる。この点も、1980年代以降の、大阪市における「官私パートナーシップ」(第三セクター)によることごとくの再開発の失敗が、膨大な財政赤字となって、税負担の増大や社会サーヴィスの削減として住民への負担となってあらわれている事態をよく示しているように思われる。
5、
公園の利用者はかつての「無産者」ないしは「民衆」ではない。かつての大阪市社会部調査課の報告においては公園の目的のはき違えとして退けられていた「物見遊山」的な活用は、いまでは、公園の目的そのものとなっている。公園はいまや、住民の生活上の必要にもとづくものから、「客」、すなわち消費者による消費の対象という位置づけに転換しているのである。
したがってそれは、消費者である「客」ではない者に対して開かれている必要もない。これはネオリベラリズムの支配にともなって世界規模で進行している事態を示してしばしば形容される「新しい囲い込み(New Enclosure)」といわれる事態(Midnight Note 1992)を端的に例示しており、さらに物理的にゲートと外壁、監視カメラでおおわれた天王寺公園ほど、この「新しい囲い込み」の概念を説得的に例証するものはない。
しかし、ここで重要なことは、以下の点である。先ほどふれた、かつての「万人に開かれていると同時に無産者ないし民衆というあて先をもつ」という一見して矛盾したようにみえる規定が、当時の公園の理念を表現していたのとは大きく異なり、現在においては、「万人に開け」といった名目で囲い込みが進行するといった事態である。原口剛の指摘するように(原口 2006 153-154頁)、「集客都市論」へと結実するこの流れは、「グローバリゼーション」が「人の流れ」を活性化するという前提をおいた上で、「住民」「居住民」による街の活用を「私有」に近いものと捉えて、それに対して、旅行者、出張ビジネスマンたち「トラベラー」の利用(つまり消費的活用)にも開け、という主張の構図をとる(2)。これは、1926年の報告書が大前提として捉えていた「居住」という意味での生にかかわる問題(<社会的>問題)が不可避に生みだす広い問題の幅を最小化し、所有と消費に一元化させながら<経済的>問題へと置き換えていく動きであるといえるが、ここにみるべきなのは、さらに以下の点である。「新しい囲い込み」が「万人に開け」といった言表とともにあらわることが可能であるのは、それが言説上は、物理的な隔離ではなく「抽象化=切り離し(abstraction)」の提案によって進行するからである、ということ。かつての公園の普遍的理念が、「負」の要素もふくめて「現実にそこにあるという状態」から出発して再編成あるいは実質化されていたのに対して、ここでは、その「現実にそこにあるという状態」は最初から捨象されるか、あるいはあらわれたとしてもプランにとっての障害物にすぎないかのように扱われるのである。原口がいみじくも指摘しているように(2006 153頁)、近年、すさまじい勢いでおこなわれる公園からの野宿者の強制排除は、決して近隣住民や市民と野宿者の敵対関係から生じたものではない。先ほどあげた1979年時点での市の対応にもあるように、そもそもかつて行政は、建前上、複数の利害から超然とし、とりわけ少数者の不利益にならないように調停する役割を負っていたはずなのだ。また、そもそも、こうした野宿者と非野宿者住民の関係は、たいていの場合は、排除しなければならないというぐらい明確になるほど単純なものではない。そこでは、反撥と共感、許容といった感情は入り乱れあっているといえる。むしろ、みずからの施策の貫徹のために「苦情」が活用され、敵対関係が構築される、といった傾向が強いといえる(原口 2006 153頁)。
ネオリベラリズムの支配するパラダイムにあっては、すべての人間活動が消費行為へと還元される傾向はしばしば指摘されるところであるが、天王寺公園の現在が示唆するのは、それだけでは決して現状を捉えられないのではないか、ということであり、その傾向にさらに一ひねり加えられる点である。つまり、それまでの豊かな活気に充ちたみずからの歴史を完全に切断する、有料化の壁、厳格な開園時間の設定、透明な外壁や赤外線センサーによって、要塞のようなガードで固めたこの寒々とした閑散とした空間である。生活に根ざす利用者を排除し、その利用者を「客」という消費者へと転換したものの、その消費者ですら不在の傾向にある奇妙な空間。それが、長年にわたってさまざまなかたちで人々の記憶に刻まれてきた「庶民の公園」の現在なのである。この事態は、もちろん、街づくりはいうまでもなく商売としても大きな失敗を繰り返す行政の拙劣さの帰結でもあるが、しかし、同時に現在の私たちの社会を貫くあるリミットを示唆しているようにも思われるのだ。
イベントという集客装置を媒介として、公園が商業空間へと転換されたとき、公園利用にまつわる主体のイメージは、住民すなわち地域で生活する人間から、脱場所的な存在であるような消費者(「トラベラー」というイメージに集約される)へと転換した。だが、その消費者の消費の対象としても希薄である天王寺公園の現在のすがたがきわめてよく示唆しているのは、公園の(あるいは公共空間一般)の、いわば「ヴァーチャル化」である。それは人間がいなくとも、「公共空間のイメージ」を抽象的にただ「イメージ」として提供することのみによって、いまだに「公園」と呼ばれることができるのである。そしてそこでの「公共空間のイメージ」とは、「消費者」が望んでいるとされる「清潔さ、明るさ、楽しさ」などである。かつての大阪市社会部調査課を促していた、人々の利用形態や消費行動のいわば「人類学的」ともいえる多様さへの注視はもはやみられない。
かくして、大正期において、近代的公園のパラダイムの形成を支えた人々の生から出発して理念を実質化あるいは和解させようとするまなざしとは、逆向きのまなざしが新しいパラダイムを規定しているのである。こうした近年の傾向に対して、人類学者たちによる「ヴァーチャリズム」の概念をあてはめてもいいだろう。人間の多様な行動領域のごく一部から抽出され理念的に設定された新古典派経済学的なイメージが人間の行動領域全般を覆っていく、その傾向がネオリベラリズムを介して極限に達しつつある状況をそれは指示している。ヴァーチャリズムの強力さは、それがヴァーチャルであるがゆえに、たとえば構造調整政策のように、それがヴァーチャルに規定するモデルに反する証明がいくらあらわれたとしても、モデルの再考を促すことはなく、むしろモデルの強化を促す材料にされるというところにある(McMichael 1998)。人間のヴァーチャルな「消費者」の、ヴァーチャルな「ニーズ」が、ヴァーチャルに「充足」されるというオートマティズムを構成していることで、閑散とした天王寺公園は、その「ヴァーチャリズム」を体現しているといえる。そして、その「ヴァーチャリズム」は、たんなる失敗に終わってはいない。おそらくは膨大な赤字を抱えていると推測される天王寺公園だが、その「失敗」が、モデルの根本的な問題性を捉えかえすきっかけになるとは考えにくい。そのオートマティズムは、不断に「囲い込み」のなかでヴァーチャルな「公共性」を再定義すること、「公共性」を「私有化」することを達成しているともいえるだろう。
天王寺公園をめぐる1980年代以降の行政文書のまなざしは、その公園を利用する人々の詳細な分類という点で人間にむけられるよりは、もっぱら環境としての公園のイメージに向けられる(原口 2004)。「公園のイメージの低下」が問われ、「ちり一つない」チボリ公園、ディズニーランドを見習うべきと提案され、集客のための「演出」の必要が訴えられる。
この反証をもろともしない「ヴァーチャリズム」はいずれ自壊するのかもしれない。だが、それまでに私たちは「都市」とはなんなのか、それを忘れ去っているかもしれない。
(1)厳密にいえば、金沢の兼六園、東京の六義園、後楽園、芝の浜離宮などは、日本において住民が自由に利用できた公園が有料化された例である、が、それらは名所旧跡が公園となったものであり、そもそも観光的な価値を有していたといえる。他方で、都市公園法における総合公園である公園が有料化された事例は、宇部市の常盤公園がそうだとされるが、それも市民であれば無料となる(永橋、土肥、1996、216頁)。
(2)ジャパノロジストのアレックス・カーは、日本の都市が画一化し魅力を失う要因として、行政や企業の主導する開発や再開発などに対し、居住原理にもとづいて住民が行使する抵抗力による都市の磨き上げが希薄である点を指摘している。ヨーロッパの諸都市が「トラベラー」に魅力的であるとしたら、それは、決して財界が文化人を集めてつくるシンクタンクや広告代理店やデベロッパーのデザインに対して、「わが町」意識の高い住民たちが従順ではなかったからであることを想起してもいいだろう。
文献
Carrier,J. G. and D.Miller 1998 Virtualism:A New Political Economy,Berg
Harvey,D. 2001 Spaces of Capital:Towards a Critical Geography,Routledge.
McMichael,P. 1998 Development and Structural Adjustment,in Carrier and Miller(eds.) Virtualism:A New Political Economy,Berg
Harvey,D. 2001 Spaces of Capital:Towards a Critical Geography,Routledge.
The Midnight Notes Collective 1994 The New Enclosure,in Midnight Collective(ed.),Midnight Oil:Work,Energy,War,1973-1992,Autonomedia
荒木傳 1989 『大阪社会運動の源流 風霜の彼方に』東方出版
大阪市社会部調査課 1923『餘暇生活の研究』(氏原正治郎解説 1970『生活古典叢書8 余暇生活の研究』光生社、所収)
酒井隆史 2006 「政治、平等、出来事」『VOL』1号
田中正大 1974『日本の公園』鹿島出版会
都市と公園ネットワーク(編) 1994 『大阪発―――公園SOS』都市文化社
永橋為介、土肥真人「大阪天王寺公園の管理の変遷と有料化が及ぼした野宿者排除の影響に関する研究」『ランドスケープ研究』59(5)、1996年
丹羽弘一 1991 「関係性の問題としての「野宿者」」『寄せ場』日本寄せ場学界、現代書館
原口剛 2004 「天王寺公園有料化の背景―――公共空間の変容と新しい排除」(未公刊)
―――2006 「集客都市の暴力」『VOL』1号
平井正治 1997 『無縁声声 日本資本主義残酷史』藤原書店
丸山弘 1994 『近代日本公園史の研究』思文閣出版
天王寺公園
嘘のやうだ
十年の歳月が流れたとは
路端の風にあふられる新聞屑
ところきらわず吐きちらされた痰唾、吸殻、弁当殻
藤棚のある運動場
雨水の滲みこんだ公会堂の壁
砂を浴びた樹立や芝生
古ぼけた鉄骨の高塔―――「通天閣」
そのかなたに浮んでゐる夏雲のみだれ
そしてまたこゝを歩いてゐる人々の疲れた顔、鈍い眼
眸
みんな昔のまゝだ
リボンのとれた帽子も よごれた白衣も
「昨日」もあゝしてベンチの上や植込の蔭でアブレや
浮浪者はエビのやうに身体を折り曲げて眠つてゐた
十年前にもあゝして鉄柵のところでみすぼらしい鮮人
の女は子供のおしつこをさしてゐたつけ
あゝ、しかしなんとかれらの数の増えたことか
してみると何もかも昔のまゝと云ふわけではないのだ
俺は再びこの街に帰つてきた
そして昔なじみの公園を歩いてゐる
埃つぽい樹木やゴミゴミした雑踏の間を
俺は「俺の故郷」についてなんの淋しさも自嘲も今は
感じない
ただこの眼に映るものを残らずハツキリと視たい気持
だ
(小野十三郎『古き世界の上に』1934年より)
1、
大阪市天王寺区の南西部に位置し、大阪を代表する近代的公園である天王寺公園。小説や映画など、さまざまな媒体によって断片的にあらわれるその公園の歴史のなかでのすがたから、現在のすがたからはまったく想像することができない。建前上は名称と機能を同じくしながら、これほど「変質」をとげた空間もそれほどはない、ともいえるのではないか。それだけに、この「変質」は、現代の公園、あるいは都市そのものの変容を、その突端において指し示しているとも考えられまいか、これが本稿の仮定である。
たとえば、東映『釜ヶ崎極道』シリーズをはじめ、1960年代以降撮影された、いわゆる大阪「ディープサウス」地域にインスピレーションを求めた、やくざ映画、ポルノ映画をはじめとしたおびただしい数の映画、そして小説群が、この天王寺公園をなんらかのかたちで登場させている。そこでは豊かな木々のなかで、都会に出てきた困惑のなかで仮宿を求める人々、仕事にアブレぶらぶら暇をつぶす人々、数々の露店、見世物小屋、などなどが登場する。それらの表現が一様に前提としているのが、この公園のいわば開放的な「民衆性」であるともいってよいだろう。
まずはじめに、ざっと天王寺公園の歴史についてふれておく。
天王寺公園の設置の発端は、1903年(明治36年)の第五内国勧業博覧会の開催にさかのぼる。すでに大阪では太政官布告にしたがって、四天王寺を公園として設置していたが、その代替地として、現在の天王寺公園のあたり約10万坪の用地を取得していた。第五回内国勧業博覧会は、この用地を、一時的に利用するというかたちで開催される。その後、博覧会跡地がすべて公園へと転用されるものと思われていたが、その西側の一部は民間へと貸与され(通天閣を中心におく新世界という盛り場となる)たり、日露戦争における軍部への貸与期間を経たりして、1909年(明治42年)になって天王寺公園はやっと開園された。
天王寺公園がきわだって「民衆の公園」というべき性格を帯びていたとしたら、それは、とりあえず以下の二点においてである。
一つには、社会運動史において果たした役割にある。いわゆる公園が民衆による社会運動の歴史にひんぱんに登場するようになるのは、大正デモクラシーの時期であるが、日本において公園がその理念の実質性を獲得していったのはこの時期であるといってよい。近代的公園として1873(明治6)年という日本の近代化の過程の最初期に設立された上野公園は、国家的セレモニーや実際に、天王寺公園の設置のすでに6年前、1903(明治36)年に開設されていた日比谷公園は、大正デモクラシーの場所的な開始点ともされる(丸山1994 84頁)。戦前の日本の社会運動史において、天王寺公園の名は、あるいは上野公園や同じ大阪の中之島公園とならんで頻出する公園の名である。それには、中之島公会堂が、1913年(大正2年)そのまま移築され、天王寺動物園の南側に建つことになった、天王寺公会堂の存在が大きい(荒木 1989 97頁)が、公会堂における演説会、集会のみならず、デモの始点、終点としてもひんぱんに活用される(丸山 1994)。
たとえば目立った事例のみをとりあげてみるなら、1918年に米騒動が大阪にも飛び火したとき、その複数の起点のうちの一つは、天王寺公会堂である。ちょうど、米騒動が米価調節についての市民大会が開催されていたが、この閉会ののち、今宮町で発火して各地に広がりつつあった米騒動に大会参加者も合流。翌日も、天王寺公園は、そこからこの蜂起に参加する人々の結集場所となった。また、1922年(大正11年)には、いわゆるアナ・ボル論争の発火点となった、日本労働組合総連合の創立大会がこの天王寺公会堂で開かれている。付け加えておけば、いまはなき天王寺音楽堂では、1971年から1979年まで、関西フォーク、ロックの存在をアピールし活気づけた「春一番コンサート」が開催されていたことで天王寺公園は関西の音楽シーンの歴史のうちに記憶されている。
そして第二点として、その位置する場所、つまり釜ヶ崎という日本最大の寄せ場や新世界という安価で楽しめる盛り場が隣接していること、もともと近隣は低所得者層の街であるといった特徴が、この公園の利用者の層を規定したということである。この点については、のちにまた触れることになるので、指摘にとどめておく。
このような長い歴史をもつ天王寺公園だが、大きな転回点は1980年代にやってきた。1987年7月から10月にかけて、「いのち生き生き」といったテーマを掲げて開催された天王寺博覧会を契機として、その整備のためとして、開催前後の期間をあわせて2年にわたって公園は閉鎖される。1990年2月に新規に開園した際には有料化され(大人150円)、また「外周柵」によって厳格に仕切られた空間としてあらわれた。3メートルの透明な外壁には、数メートルごとに赤外線センサーが数多く装着されている。また、天王寺公園を構成している、動物園や美術館へと行く際に、めんどうな料金の支払いや迂回しなければならない新しいルートなど、さまざまな障害も発生した。かつての天王寺から盛り場新世界との街の連続性も、この措置によって分断されることになる。
もちろん、このような劇的変化には抵抗もあり、有料化の是非をめぐる訴訟が市民よりなされている(大阪地裁の判決は、市の裁量権の範囲内として原告敗訴)。この有料化の措置によって、天王寺公園は、市民公園としては日本でもまれな有料化された公園となる(都市と公園ネットワーク 1994 10頁(1))。「イメージアップによる活性化」。地下には私的企業の運営する駐車場が設けられ、地上には人工の滝、コンクリート敷きの小川と小道が設営された。しかし、かつては自然が豊かだったとされるこの公園は、整備において、樹木約4100本が伐採ないし移植され、その面影はない。剥きだしにされた空間に、人工的な飾り物ばかり目立つ場所である。
さらに、重要な点は、天王寺博覧会開催をまえにして、1986年には、「一時的」な措置として、公園の野宿者300人が締め出されている(平井 1997 256頁)。それ以降、イベントを期にして、野宿者を公園から強制的に排除するという事態は、頻度と、攻撃性、暴力性を増しながら強化されている。
このような結果、かつての「庶民の公園」としての天王寺公園は、きわだって排他的である「要塞」のごときていをなして君臨することになった。閉鎖されている時間も長いために、外壁で仕切られた内部の天王寺公園はたいがい閑散としていて、その活気のなさはきわだっている。なによりも驚くのは、その歴史のなかであらわれる天王寺公園の豊かな存在感を、かくもあっさりと刈り取ってしまう、この20年ほどの経緯のはらむ大きな切断である。
3、
それでは、この80年にわたる公園の伝統との決別が、どのようなものなのか、さかのぼって大正期における公園をみつめるまなざしの断片をみてみよう。
先述したように、大正期は、公園の理念が、時代状況の変容や、現実の利用状況との参照関係のなかから、実質化した時代である。公園は、資本蓄積の法則が人間集団の多様体を貫徹しつつ、みずからが生みだすと同時にみずからの前提である部分の捕獲装置―――「緩衝地帯」としてしばしば表現された―――として明確にあらわれるが、その搾取の機構や捕獲装置をめぐる激しい集団的紛争が起きる場ともなる。そのなかで、公園のうちには、かつての「コモン」の意義を、<社会的なもの>の上昇を変形させながら導きいれたのである。ここに、日本における近代的公園のパラダイムが形成される。
そのようなパラダイムを体現しているのは、1919年(大正8年)に、米騒動から第一次大戦後の戦後不況のなかで、大阪市に設置された大阪市社会部調査課の存在とそれによる文書である。
大正期には、1919年から1826年(大正15年)までに、調査課は『労働調査報告』として50の報告を残している。そのうちでも、公園を主題にすえて直接に調査をおこなった唯一のレポートである「公園内に於ける無宿者調査」『労働調査報告』第50号をみてみよう。
このレポートを一読して気づくことは、現在であればホームレスと呼ばれるだろう「無宿者」の存在を、公園の存在そのものにとって、なにか否定的な含意をもって問題のあるものとしてはほとんど捉えていないことである。
たとえば、次のようにレポートは記述する。
「何の貯へもなく明日の生命の保證さへも有たないこれら失業者があてどのない職と食を漁り求めてあちこち徘徊したのは各都市において見受けられた惨めな光景であつた。昨秋九月前後より年末にかけて本市中之島及天王寺公園に於いてもこれら全く生活に行きくれ多數の人々が夜ごと傘に川風をさけ蓆に暖をとりつゝほの暗い木立の間に或はベンチの上にはかない夢を結ばねばならなかつたことは極めて遺憾なことであつたと共に當時本市に於いて相當多くの失業者が路頭に迷ふてゐたことを有力に立證する」。
無宿者の境遇に対する同情が目に留まるが、ここで問われているのは、世間では混同されている失業問題と無宿者の存在を問いにふし、失業問題の解決をなすべく失業問題の実相にいたること、そのために、無宿者と一括される存在を失業者、無業者、有業者、乞食、浮浪者などといった範疇へと詳細に分類することなのである。
もちろん、「浮浪者乃至無宿者」の増大が社会的弊害となることは予測されている。そのための救済策としては、報告書は、大阪市労働共済会による各種の共済施設、失業救済土木事業があげられる。これは無宿者のなかの「真の失業者」ねらったものであり、既存の社会施設の活用により、「労働又は定住の習性を養はしむる」ことである。それに加えて、「やや微温的であり且つ消極的ではあるが」と前置きして、述べられるのが次のような提案である。
「警察當局の取締を嚴にすると共に公園その他における設備に改造を加へ或は巡視を置いて無宿者の來集を防ぐことが必要であり尚病者不具者及老幼者にして到底自活し得ないものに對しては現在の救護又は救助施設によるしか他に適當な方法はないやうである」。
この一節においては、警察の取り締まりや公園設備の改造が唱えられている。だがそこにおいても、このような対策は「消極的」あるいは結論部分では「姑息」と位置づけられ、問題の解決に根本から資するものではないことは自覚されていることは記しておかねばならないが、さらに、公園に無宿者がふさわしいかどうかということは問われていないことは確認しておく必要がある。ここでおもに課題とされているのは、無宿状態の解消なのである。
このような、無宿者の公園利用についてそのものへの相対的な無関心を規定しているのは、当時、確立されつつあった近代的公園の理念である。1919年(大正8年)の同調査課刊行の『餘暇生活の研究』(『労働調査報告』19号)における、公園の位置づけは、当時の、さまざまな行政関連、あるいは民間の報告書の基調を集約しているものといえるだろう。
「公園の面積を增すことは勿論必要であるがそれと同時にその利用性を增すことがより以上に重要である。即ち公園を利用する人が少いか或いは極めて短時間の利用ではその公園は有效に働いたとは云へない。大阪人の公園利用の實際を見るに從来の物見遊山の因襲に捉はれて居るやうである・・・・公園は民衆の公園であって公園などへ行かなくとも自家に庭園を所有し娯楽機関を備えつけてあるやうな少数者の趣味に投ずるが如き所謂高尚な数奇を凝らした箱庭式庭園よりも満足な住居を持たず公園を自己の庭園として唯一の慰安休養の地と考へて居るやうな人々の趣味要求を標準として彼等の最も利用し易かるべき無産者階級の公園、民衆的公園たらしむることが最も必要であらうと思ふのである」(大阪市社会部調査課、163頁)(強調引用者)。
公園は、万人に開かれているのと同時に、「無産者」、「民衆」といった、いわば多かれ少なかれ階級的含意をもったあて先をもっている。すなわち、公園は理念としては「万人に開かれていると同時に無産者ないし民衆というあて先をもつ」という一見矛盾した事態がここにみられるのである。しかし、この矛盾は、理念が現実に衝突しある実質をもった帰結であると捉えうるように思われる。つまり、それは、公園が「所有」という支配的理念に対するオルタナティヴを構成しているという点にある。「所有」なきものに開かれた空間利用の形態の一つが「占有」であるとしたら、それは相対的に「所有」の領域に与る度合いの少ない者(無産者、民衆)たちによる、ある持続をもった占拠といった「占有」に対しては比較的開かれている。それは決して公園の理念に背反する事態ではないからである。
4、
こうした、かつての公園をめぐるパラダイムは、おそらく1970年代の終わりまでは維持されていた。天王寺公園については、1979年に、地元のある団体(天王寺公園愛護会)から、野宿者対策として公園有料化の要請がなされたことがある。このとき、市公園局は、人権問題という視点をもって、有料化や柵などによる管理形態をとることなく、要請に対しては、「市職員の巡回回数の増加」「警察によるパトロール強化」(永橋、土肥、213頁)を回答している(これは先に引用した1926年時点での大阪市社会部調査課による、「消極的な」対策案を踏襲している)。
この長年にわたって維持されてきた公園を捉える枠組みの変容が、天王寺博覧会の開催から「要塞化」による再オープンにいたる1980年代の動向を規定している。公園をまなざすコードは、大ざっぱにまとめるならば、<社会的なもの>から<経済的なもの>―――公園は潜在的経済的価値をもったオープンスペースとみなされる―――へとシフトする。この背景には、もちろん、あたらしい政治的合理性としてのネオリベラリズムの台頭と支配があることは間違いない。都市の文脈でいうとそれは、デヴィッド・ハーヴェイのいう、都市管理経営主義から都市アントレプレナー主義への移行(Harvey 2001)に対応している。
天王寺公園の文脈でいえば、そもそも天王寺博覧会の開催は、「大阪21世紀計画」なる構想を遂行する「財団法人大阪21世紀協会」によって提案されている。この大阪21世紀協会の発足が1982年であり、それは日本の初期ネオリベラリズムの展開期を画する中曽根民活路線に沿ったものであった。情報化社会にふさわしい新しい国際都市としての大阪を構想するという名目で、それを遂行する手段として大阪21世紀が掲げたものの一つが「イベント・オリエンテッド・ポリシー」であった。これは、この1980年代以降の都市再編の流れに大きな影響を与えた作家の堺屋太一によって提唱されたものである。堺屋は、このポリシーを、情報化、国際化といったあらたな情勢に対応する都市戦略として、ニューディールに比肩するもの、「ソフトディール」と位置づけている。そこではニューディールにおける公共事業はイベントに置き換えられ、イベントを介して好循環が帰結するとされる。つまり、人が集まり、街は美化され、投資を呼びこみ、店舗や施設は増大し、街は充実する。その結果、より多くのイベントがおこなわれ、さらに人は集まる、そこでつくられる施設は人々のニーズにそったものになり繁盛する、とよいことづくめのヴィジョンが描かれた(原口、2004)。
この「イベント・オリエンテッド・ポリシー」の線に沿って、天王寺博覧会は開催される。そしてそれと同時に、行政や民間資本側による都心のオープンスペースとしての公園の潜在的経済価値への注目がはじまっている。公園にイベントという「集客装置」を設置し、それを契機に公園を商業空間に転換し、そこで再確立した管理権をそのまま継承して、より大きな開発へと向かう、という公園を活用したこの「ポリシー」の具体化の方向性は、ここにおいて明確にあらわれる。
この大阪で進行していた流れは、先述した都市管理経営主義から都市アントレプレナー主義への流れと合流しているように思われる。たとえば、都市アントレプレナー主義は、その最重要項目として「官民(官私)パートナーシップ」をおくと定義される。このパートナーシップは、地域(territory)の政治経済よりもはるかに密接に場所(place)の政治経済に焦点を合わせる、といったハーヴェイの指摘する、都市アントレプレナー主義の特性も呼び起こさせる。テリトリーとは、ここでは、特定の法的管轄区内部で、生活条件やあるいは労働条件を改善することに主要に向けられた各種の経済的プロジェクト(住宅、教育など)が示唆されているが、そこからすれば、大正期の行政が公園をみつめるまなざしは、まさにこのテリトリーによって規定されている。1926年の「公園内に於ける無宿人調査」報告が、天王寺公園と中之島公園という地理的にはかなり距離のある二つの空間を重点的に調査しているものの、そこに同じ(社会的)問題をみいだしているために地域的差異にはまったく不関与であるのに対して、この新しいアントレプレナー主義による天王寺公園へのまなざしは、天王寺地域が、大阪の新国際空港への窓口となり、といった経済的な戦略的位置づけによっていわば特異点(プレイス)として扱われている。
地域から場所の政治経済へという動きとあいまって、「住民」「居住者」の存在や圧力をミニマムに追いやりながら進行する。たとえば、それまでも観光や産業誘致の地域の売り込み(local boosterism)は存在した。だが、この都市アントレプレナー主義のもとでの特徴は、それが、外部からの資金源、新しい直接投資、あるいは新しい雇用源を求め、惹きつけるために、地方政府(地方自治体)を活用することのうちに統合される点にある。この視点からみるならば、大阪21世紀協会の登場は、たしかに、都市管理経営主義から都市アントレプレナー主義への転換を画するものといえる。都市政策について、もちろんそれまでも財界は強い影響力を及ぼしていたが、しかしそれは、形式上はさまざまな審議会に委員の代表を送り、あくまで都市を構成するさまざまなアクターの一員としての立場におかれていた。ところが、21世紀協会の新しかった点は、そこにおいて、財界と大阪府・市といった自治体が直接に都市計画をおこない、実現にうつす、という場になったことである。
このことは、「官私パートナーシップ」の活動が「アントレプレナー的」であるという点にさらにかかわっている。つまり、それがアントレプレナー的であるのは、遂行や構想において「投機的」であり、投機的活動につきものの困難や危険につきまとわれている、というに求められる。とすれば、それはかつての合理的に計画され調整された開発とは大きく異なっている。ハーヴェイの指摘によるならば、もちろん例外はあるものの、多くの場合、このことは公共部門がリスクを引き受け、民間部門が利益をうる、ということを示唆しており、この地方公共部門がリスクを吸収するとなる。この点も、1980年代以降の、大阪市における「官私パートナーシップ」(第三セクター)によることごとくの再開発の失敗が、膨大な財政赤字となって、税負担の増大や社会サーヴィスの削減として住民への負担となってあらわれている事態をよく示しているように思われる。
5、
公園の利用者はかつての「無産者」ないしは「民衆」ではない。かつての大阪市社会部調査課の報告においては公園の目的のはき違えとして退けられていた「物見遊山」的な活用は、いまでは、公園の目的そのものとなっている。公園はいまや、住民の生活上の必要にもとづくものから、「客」、すなわち消費者による消費の対象という位置づけに転換しているのである。
したがってそれは、消費者である「客」ではない者に対して開かれている必要もない。これはネオリベラリズムの支配にともなって世界規模で進行している事態を示してしばしば形容される「新しい囲い込み(New Enclosure)」といわれる事態(Midnight Note 1992)を端的に例示しており、さらに物理的にゲートと外壁、監視カメラでおおわれた天王寺公園ほど、この「新しい囲い込み」の概念を説得的に例証するものはない。
しかし、ここで重要なことは、以下の点である。先ほどふれた、かつての「万人に開かれていると同時に無産者ないし民衆というあて先をもつ」という一見して矛盾したようにみえる規定が、当時の公園の理念を表現していたのとは大きく異なり、現在においては、「万人に開け」といった名目で囲い込みが進行するといった事態である。原口剛の指摘するように(原口 2006 153-154頁)、「集客都市論」へと結実するこの流れは、「グローバリゼーション」が「人の流れ」を活性化するという前提をおいた上で、「住民」「居住民」による街の活用を「私有」に近いものと捉えて、それに対して、旅行者、出張ビジネスマンたち「トラベラー」の利用(つまり消費的活用)にも開け、という主張の構図をとる(2)。これは、1926年の報告書が大前提として捉えていた「居住」という意味での生にかかわる問題(<社会的>問題)が不可避に生みだす広い問題の幅を最小化し、所有と消費に一元化させながら<経済的>問題へと置き換えていく動きであるといえるが、ここにみるべきなのは、さらに以下の点である。「新しい囲い込み」が「万人に開け」といった言表とともにあらわることが可能であるのは、それが言説上は、物理的な隔離ではなく「抽象化=切り離し(abstraction)」の提案によって進行するからである、ということ。かつての公園の普遍的理念が、「負」の要素もふくめて「現実にそこにあるという状態」から出発して再編成あるいは実質化されていたのに対して、ここでは、その「現実にそこにあるという状態」は最初から捨象されるか、あるいはあらわれたとしてもプランにとっての障害物にすぎないかのように扱われるのである。原口がいみじくも指摘しているように(2006 153頁)、近年、すさまじい勢いでおこなわれる公園からの野宿者の強制排除は、決して近隣住民や市民と野宿者の敵対関係から生じたものではない。先ほどあげた1979年時点での市の対応にもあるように、そもそもかつて行政は、建前上、複数の利害から超然とし、とりわけ少数者の不利益にならないように調停する役割を負っていたはずなのだ。また、そもそも、こうした野宿者と非野宿者住民の関係は、たいていの場合は、排除しなければならないというぐらい明確になるほど単純なものではない。そこでは、反撥と共感、許容といった感情は入り乱れあっているといえる。むしろ、みずからの施策の貫徹のために「苦情」が活用され、敵対関係が構築される、といった傾向が強いといえる(原口 2006 153頁)。
ネオリベラリズムの支配するパラダイムにあっては、すべての人間活動が消費行為へと還元される傾向はしばしば指摘されるところであるが、天王寺公園の現在が示唆するのは、それだけでは決して現状を捉えられないのではないか、ということであり、その傾向にさらに一ひねり加えられる点である。つまり、それまでの豊かな活気に充ちたみずからの歴史を完全に切断する、有料化の壁、厳格な開園時間の設定、透明な外壁や赤外線センサーによって、要塞のようなガードで固めたこの寒々とした閑散とした空間である。生活に根ざす利用者を排除し、その利用者を「客」という消費者へと転換したものの、その消費者ですら不在の傾向にある奇妙な空間。それが、長年にわたってさまざまなかたちで人々の記憶に刻まれてきた「庶民の公園」の現在なのである。この事態は、もちろん、街づくりはいうまでもなく商売としても大きな失敗を繰り返す行政の拙劣さの帰結でもあるが、しかし、同時に現在の私たちの社会を貫くあるリミットを示唆しているようにも思われるのだ。
イベントという集客装置を媒介として、公園が商業空間へと転換されたとき、公園利用にまつわる主体のイメージは、住民すなわち地域で生活する人間から、脱場所的な存在であるような消費者(「トラベラー」というイメージに集約される)へと転換した。だが、その消費者の消費の対象としても希薄である天王寺公園の現在のすがたがきわめてよく示唆しているのは、公園の(あるいは公共空間一般)の、いわば「ヴァーチャル化」である。それは人間がいなくとも、「公共空間のイメージ」を抽象的にただ「イメージ」として提供することのみによって、いまだに「公園」と呼ばれることができるのである。そしてそこでの「公共空間のイメージ」とは、「消費者」が望んでいるとされる「清潔さ、明るさ、楽しさ」などである。かつての大阪市社会部調査課を促していた、人々の利用形態や消費行動のいわば「人類学的」ともいえる多様さへの注視はもはやみられない。
かくして、大正期において、近代的公園のパラダイムの形成を支えた人々の生から出発して理念を実質化あるいは和解させようとするまなざしとは、逆向きのまなざしが新しいパラダイムを規定しているのである。こうした近年の傾向に対して、人類学者たちによる「ヴァーチャリズム」の概念をあてはめてもいいだろう。人間の多様な行動領域のごく一部から抽出され理念的に設定された新古典派経済学的なイメージが人間の行動領域全般を覆っていく、その傾向がネオリベラリズムを介して極限に達しつつある状況をそれは指示している。ヴァーチャリズムの強力さは、それがヴァーチャルであるがゆえに、たとえば構造調整政策のように、それがヴァーチャルに規定するモデルに反する証明がいくらあらわれたとしても、モデルの再考を促すことはなく、むしろモデルの強化を促す材料にされるというところにある(McMichael 1998)。人間のヴァーチャルな「消費者」の、ヴァーチャルな「ニーズ」が、ヴァーチャルに「充足」されるというオートマティズムを構成していることで、閑散とした天王寺公園は、その「ヴァーチャリズム」を体現しているといえる。そして、その「ヴァーチャリズム」は、たんなる失敗に終わってはいない。おそらくは膨大な赤字を抱えていると推測される天王寺公園だが、その「失敗」が、モデルの根本的な問題性を捉えかえすきっかけになるとは考えにくい。そのオートマティズムは、不断に「囲い込み」のなかでヴァーチャルな「公共性」を再定義すること、「公共性」を「私有化」することを達成しているともいえるだろう。
天王寺公園をめぐる1980年代以降の行政文書のまなざしは、その公園を利用する人々の詳細な分類という点で人間にむけられるよりは、もっぱら環境としての公園のイメージに向けられる(原口 2004)。「公園のイメージの低下」が問われ、「ちり一つない」チボリ公園、ディズニーランドを見習うべきと提案され、集客のための「演出」の必要が訴えられる。
この反証をもろともしない「ヴァーチャリズム」はいずれ自壊するのかもしれない。だが、それまでに私たちは「都市」とはなんなのか、それを忘れ去っているかもしれない。
(1)厳密にいえば、金沢の兼六園、東京の六義園、後楽園、芝の浜離宮などは、日本において住民が自由に利用できた公園が有料化された例である、が、それらは名所旧跡が公園となったものであり、そもそも観光的な価値を有していたといえる。他方で、都市公園法における総合公園である公園が有料化された事例は、宇部市の常盤公園がそうだとされるが、それも市民であれば無料となる(永橋、土肥、1996、216頁)。
(2)ジャパノロジストのアレックス・カーは、日本の都市が画一化し魅力を失う要因として、行政や企業の主導する開発や再開発などに対し、居住原理にもとづいて住民が行使する抵抗力による都市の磨き上げが希薄である点を指摘している。ヨーロッパの諸都市が「トラベラー」に魅力的であるとしたら、それは、決して財界が文化人を集めてつくるシンクタンクや広告代理店やデベロッパーのデザインに対して、「わが町」意識の高い住民たちが従順ではなかったからであることを想起してもいいだろう。
文献
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荒木傳 1989 『大阪社会運動の源流 風霜の彼方に』東方出版
大阪市社会部調査課 1923『餘暇生活の研究』(氏原正治郎解説 1970『生活古典叢書8 余暇生活の研究』光生社、所収)
酒井隆史 2006 「政治、平等、出来事」『VOL』1号
田中正大 1974『日本の公園』鹿島出版会
都市と公園ネットワーク(編) 1994 『大阪発―――公園SOS』都市文化社
永橋為介、土肥真人「大阪天王寺公園の管理の変遷と有料化が及ぼした野宿者排除の影響に関する研究」『ランドスケープ研究』59(5)、1996年
丹羽弘一 1991 「関係性の問題としての「野宿者」」『寄せ場』日本寄せ場学界、現代書館
原口剛 2004 「天王寺公園有料化の背景―――公共空間の変容と新しい排除」(未公刊)
―――2006 「集客都市の暴力」『VOL』1号
平井正治 1997 『無縁声声 日本資本主義残酷史』藤原書店
丸山弘 1994 『近代日本公園史の研究』思文閣出版
by righttothecity
| 2015-05-31 07:36

